2025年7月20日
主日礼拝

①マタイによる福音書58節:心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る私の母教会では、この箇所から「直心(じきしん)の祈り」というものを大切にしています。「直心」とは、ありのままの心、素直な心という意味です。この清いという言葉は、ギリシア語のカサロスで、純粋なという意味があるため、子供のような純粋な心、ありのままの心、素直な心こそが、神を見る、神に出会うことになります。ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた(ヨナ書4章1,2節)。ヨナが怒った理由はいくつか考えられますが、当時は異邦人の救いなど、イスラエルには思いもよらなかったからかもしれません。ヨナは、自分の言い分をそのまま主に持っていきました。それに対して、神様はむずかる子供を母がなだめるようにヨナをなだめました。私たちは間違えます。それでもありのままの心を神様に差し出すことで、必ずそこに神様は働いてくださります。      (小林)

神は言(イエス・キリスト)で、愛と調和に満ちた世界を創造されました。ところが最初の人は誘惑され、神の戒めを破ります。神に背を向け、断絶します。破れた関係を修復するため、神は独り子を世に遣わします。神であり人でもあるイエスです(礼拝讃美歌98番1、2番の歌詞)。わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテヤ2:19-20)自我=困り者のわたしは、十字架によって既に死に、キリストが代わって生きる、これが信仰による変化です。キリストを主として受け入れた時、起こります。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰による(同20節)。今、私は弱さを抱えながらも、信仰によって生かされ、キリストと共に生きています。  (浜田)

礼拝讃美歌98番♪・・この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ。

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-07-20 小林兄、浜田兄(20:00))