戦争には指揮する力が必要であり、
勝利を得るためには作戦を練るべきだ。 (箴言24章6節)
この世の歴史がそうであるように、聖書の歴史に於いても、戦争の記事で満ちています。戦争は悪だから止めようとはなく、どうしたら戦いに勝てるかが記されています。冒頭の御言葉も、それを示しています。
旧約聖書の歴史は、イスラエル民族の戦いの歴史です。その出発点は、モーセに率いられてエジプトでの苦役からの解放にありました。その戦いは、自分たちの力による勝利ではなく、神が先立って戦ってくれたからです。モーセは迫り来るエジプト軍を見て怯える民に「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト14章14節)と命じました。そして、エジプト軍に勝利した海辺で、主を賛美し「主こそ戦人(いくさびと)、その名は主。主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ」と歌いました(同15章3-4節)。その時、民は戦わずして、エジプト軍に勝利しました。
次の戦いは、ヨシュアに率いられてカナンの地に侵入し、その地を占領することでした。その時は、実際に武器を持って戦いました。しかし、通常の戦争ではありませんでした。祭司が先立って進み、それに応えて神が応戦される戦いだったからです。堅固に造られて、決して崩されることはないと信じられていたエリコの城壁が、イスラエルの民が一斉にあげた鬨の声によって、一気に崩れたのです。まさしく神が、そこに働かれたのです。それは、信仰による勝利です。私たちはこの出来事を霊的に解釈します。しかし、次の現実を知っておく必要があります。それは、カナン人が邪悪だから、イスラエルの民を用いて、その地の住民に審判を下したことになるとしたら、その同じ神が、アッシリアやバビロンをいう強国を用いて、神の民であるイスラエルを滅ぼすことが起きたのです。聖書の神はご自分の民だけを、えこひいきする神ではないからです。公正で公平な裁きをなさるからです。
エリコに続く戦いがアイでも行われ、そこは完全に焼き払われました(ヨシュア8章28節)。しかし,それを証拠立てる考古学的な遺跡は、発掘されていません。それは、何を意味しているのでしょうか。そして、神が敵国を用いてご自分の神殿を破壊させ、民を滅ぼされた意味は、何なのでしょうか。次回に。
