キリスト同信会の特徴
キリスト同信会は、教職者制度、教会員制度をもたず、ひたすらイエス・キリストを仰ぎ、賛美、礼拝を捧げるキリスト集会です。正会員と客会員の区別を設けず、月定献金制度もありません。聖書にしるされているように、先生はキリストお一人で、互いを兄弟姉妹と呼び合っています。礼拝に集う者の肩書、地位や過去などは問いません。神がすべてをご存知ですから、それで十分です。「イエスをキリスト(救い主)と信じる人はどなたでも一緒に礼拝しましょう」との思いから「キリスト同信会」と名付けられました。主の十字架の死を覚えてパンを裂くことを、礼拝の中心としています。
「礼拝のながれ」も参照ください。
沿革
英国出身で、プロテスタントの流れをくむプリマス・ブレズレンの集会に交わっていたH.G.ブランド(ハーバート・ジョージ・ブランド1865~1942年)は大学の神学部を卒業するとすぐ、伝道の志を抱いて日本に渡りました。そして、1889年(明治22年)10月、7人の青年と共にパンを裂く礼拝を始めました。キリスト同信会はそこから始まります。
彼は宣教師でしたが、支持団体である宣教組織を何も持たない点で、多くの宣教師と異なっていました。支援団体から派遣されたのではなく、自費伝道でした。さらに日本において待ち受ける集会も信徒もいませんでした。ただ主キリストだけを頼りにして、イギリスを出帆したのです。集会を始めた彼のもとに有為の青年らが集い、3年後70名が主キリストによって集められていました。その中に五十嵐健治や乗松雅休がいました。
五十嵐健治は1906年(明治39年)白洋舎を創業。日本で初めてドライクリーニングの開発に成功し株式会社に改組しましたが、その経営方針はあくまで信仰を土台としたものでした。1941年に太平洋戦争が起こると社長の座を譲り、残りの生涯はキリストを宣べ伝えることに捧げています。
乗松雅休は神学生として教会で奉仕していましたが、ブランドの許に移りました。そして1896年12月の厳冬期に、単身、朝鮮(今の韓国)に渡ったのです。日本から出た最初の海外宣教師でした。乗松もブランドと同じく、背後で支える組織を一切持たず、主キリストだけを頼りにして朝鮮に渡りました。キリスト同信会の特徴がそこに示されています。
1889年(明治22年) | H.Gブランドによるパン裂き礼拝が始められる。 |
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1895年(明治28年) | 五十嵐健治(白洋舎創業者)がキリスト同信会の中島佐一郎から受洗(19歳)。 |
1896年(明治29年) | 乗松雅休が伝道のため朝鮮に渡る。 |
1902年(明治36年) | 月刊の「をさなご」誌を創刊、8年後に「恩寵と真理」に改題。現在まで続いている。 |
1921年(大正10年) | ブランド夫妻神戸から帰英。送別大集会が開かれ260名が参集。 |
1923年(大正12年) | 関東大震災により神田錦町集会所が焼失。翌年3月にバラックを再建。8年後の1931年(昭和6年)に錦町集会所を新築。 |
1949年(昭和24年) | 中野区中野の現在地に東京集会所建設。 |
1963年(昭和38年) | 二階建ての新会堂建設。 |
2004年(平成16年) | 現在の集会所が新築された。 |
伝道者の紹介(イエス・キリストを宣べ伝える者として伝道者と呼びます)
浜田耕司郎
香川県高松市出身。高校生の時、倫理社会の授業で聖書とキリスト教について聞き、興味を持ちました。その後、病気と手術の中で救いを求め、大学1年生の時、イエス・キリストを自分の救い主と信じ受洗。その後、四国学院大学から東京キリスト神学校に学びました。卒業後、山形県長井市にある長井聖書バプテスト教会で牧師として仕えました。その中で思い悩んだのが、「礼拝」についてでした。礼拝について追い求め、1990年4月にキリスト同信会に移りました。茅ケ崎集会に26年間交わり、その後、2018年6月より東京集会に交わっています。