あなたの神、主があなたに渡される諸国民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。   (申命記7章16節)

モーセは上記のように命じました。敵を情け容赦なく殺し、滅ぼせ、と。それが神の命令です。主イエスの「敵を愛せよ」を聞いている私たちには、残酷に聞こえます。しかし、現実の戦争に於いては、それが現実です。「戦争の哲学そのもののなかに、節度と言う原理を導入するのは愚の骨頂」だったからです。

「聖戦」と言われますが、聖なる戦争というものが本当にあるのでしょうか。ヨシュア記が記す戦いは、神が命じた戦いです。だから聖戦と呼ばれたりしますが、それは今日の戦争とは大きく違い、宗教的な戦いです。冒頭の聖句に「彼らの神に仕えてはならない」とあります。異教の神々との戦いになるからです。それは、モーセがエジプト王の前で示した10の災い=エジプトの神々に下されたのと同じです。しかし、正義のための正しい戦争というものがあるのでしょうか。聖戦ではなく正戦です。古代の教父アウグスチヌスは正戦の5つの条件を、次のように記しています。
1、宣戦布告の原則。奇襲攻撃ではなく宣戦を布告。
2、戦争は最後の手段であること。外交努力に尽力。
3、戦争を始める正しい動機・意図。領土の拡大や経
   済権益の拡大のたではない。正義の回復のため。
4、民間人を巻き込まない。軍と軍との戦闘に限定。
5、戦争による被害と、回復される善とを天秤にかけ、後者の方が大きければ、その戦争は「正戦」。

現代の戦争は、5つある条件の1つも満たしてはいないと言われます。80年前の戦争で「祖国のために死ぬのは何とすばらしく、立派なことだろう」と言われました。それは古くからある虚言でしかありません。そして、それはわが国だけはなく、どこの国に於いても同じでした。そして今、行われている戦争も正戦ではありません。そうした現実を、毎日のように見聞きしている私たちは、戦争にどう向き合えば良いのでしょうか。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」(ルカ11章2節)と、日々祈らずにはいられません。平和の君であるキリストの再臨を待ち望みます。王の王、主の主として力と権威を持って、地上に再臨され、御国が実現する日を待ち望みます。