2025年6月1日
主日礼拝
①前回(5/11)は、主が十字架につけられた日を3時間ごとに区切ってみると、主が御顔を向けられた方向がまったく違うことに気がついたとお話しした。今日は前回、話せなかった正午から午後3時までの3時間から教えられたことをお話ししたい。正午になると、それまでの闇を切り裂くかのように、主は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と絶叫された。私は主が「わが神」と呼びかけられたことが気になった。なぜなら、主はそれまで祈りの呼びかけは「父よ」とか「アッバ父よ」だったからだ。父というのと神というのはどこが違うか。父と呼びかけられるのは、相手が自分を子と認めているから言える言葉だ。それに対して、神のほうは一方通行で、相手の応答はない。主が「わが父」ではなく、「わが神」と呼びかけられたのは、このとき、主と神とは父と子の関係が断絶していたことの証左だと思わされた。次に、「なぜ」という疑問詞にも違和感を覚えた。この言葉は、それに続く「見捨てられる」ということに異議を唱えていることになる。でも、主は私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かられたのは父なる神の御旨だ承知の上ではなかったのか。それを今更、納得できないと言いたげな言葉は主に相応しくないように思ったからだ。ここで教えられたことは、この言葉は本来なら、世の終わりに私自身が叫ぶべき言葉だったのではないか。それを主は私たちの言葉を代弁してくださったのだ。ここまで徹底して私の身代わりとなってくださったのだと教えられた。さらに主は、「渇く」、「成し遂げられた」、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とその御顔は終始、父なる神に向けられている。すると神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、私たちまでも神の身許への道を拓いてくださった。そのおかげで今、私たちは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と親しく呼びかけられるのだ。感謝しかない。 (人見)
礼拝讃美歌 256番 ♪怖れは変わりて祈りとなり 嘆きは変わりて歌となりぬ 歌いつつ歩まんハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を♪
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2025-06-01 人見兄)