イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」     (マタイ22章37~39節)

 これまで、十戒を読んできました。それを振り返ります。モーセの十戒は2枚の石の板に書かれました。第一は神との関係を、第二は人間同士の関係で、それを主イエスは、上記の聖句のように語られました。全力で主を愛し、隣人を自分のように愛するために与えられたのが十戒でした。3千年以上昔の律法ですが、人として生きる原則として、今も有効です。

モーセは、エジプトで奴隷として苦しめられていた同胞イスラエルの民を救い出し、神が与えると約束された地を目指します。モーセは80歳でしたが、40年かけて民を率いました。シナイ山まで来た時、神はそこで十戒を中心にして613もの律法を与えました。それを主イエスは、上記のように2つに要約しました。神と人との関係は上下の線になり、人と人との関係は横の線になります。それを交差すると十字になります。つまり、十戒は主の十字架を指し示しているのです。

十戒は守るために与えられた法(ルール)ですが、完全には誰も守れないのです。それを示すのが、シナイ山で神から十戒を授かっていたその時、山の麓では金の子牛を偶像として造り拝んでいたことです。山から下りてそれを知ったモーセは、激怒して2枚の石の板を粉々に砕きます。既に破られていたからです。この衝撃的な出来事は、出エジプト記32章に記されています。何と、十戒は授与された最初から破られていたのです。

十戒を代表とする律法は、私たちに人間の罪を示します。殺してはいけない、と命じられても守られることなく、殺し合いの戦争は続きます。盗むな、と命じられていても、盗みはなくなりません。律法は正しいのに、守られません。だから、新約聖書には、「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」(ガラテヤ324節)と書かれています。十戒は、私たちをイエス・キリストに導くために与えられたのです。その意味で、十戒を今も読み続けるのです。主の十字架による贖いによって、律法の呪いから解放され、祝福に入るためです。