1,あなたには、わたし以外に神があってはならない。
2,あなたはいかなる像も造ってはならない。
3,あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4,安息日を心に留め、これを聖別しなさい。
5,あなたの父母を敬いなさい。
6,殺してはならない。
7,姦淫してはならない。
8,盗んではならない。
9,偽証してはならない。
10、隣人のものを(貪欲に)欲してはならない。
以上が十戒の概要です。禁止が8つ、勧めが2つですが,原文は命令形ではなく未完了形なので、~してはならない、よりも、~しない、と訳すべきだと言われます。それで「あなたにはわたしのほかに神は無いあなたは殺さない、姦淫しない」と訳します。そうすると、禁止ではなく私たちを信頼した言い方になります。あなたはエジプト(罪の奴隷)から救い出されたのだから、十戒を守り行うはずだ、との言い方になります。人を縛る戒律と受け止めるのではなく、反対に人を自由にする教えとの受け止めになります。確かに私たちの現実には、~してはいけない、と禁止されると、かえってしたくなる天邪鬼(あまのじゃく)さが存在します。しかし、この理解をした翻訳聖書を見い出すことはできていません。
キリスト教会では、使徒信条、主の祈り、十戒を三要文と呼び、公同の教会における信仰の基本となる重要なもの、としています。使徒信条は「何を信じているか」、主の祈りは「何を祈るべきか」、そして十戒は「いかに生きるべきか」について教えられているからです。キリスト者としての生きる指針が十戒ですが、新約聖書、特に主イエスの理解で読んだら、どれ一つ守れていないと気づかされます。殺さなければ良いのではなく、「愚か者」と馬鹿にすることも同じになり姦淫をしなければ良いのではなく、淫らな思いで女性を見ることも姦淫になる、つまり、心に抱く思いが行動に現れる、と言われたのです。それを想いながら、上記の十戒を唱える時、どんな思いになるのでしょうか。私には、ルカ18章9~14節が思い浮かびます。彼は遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った、徴税人のようでありたいと願うものです。