2025年2月23日
主日礼拝
①マタイ18章22節:「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」律法学者が3回までと言うのを知っていたペトロが7回までか尋ねたときの主の答えだ。これはどういう意味か。490回は赦せということではなく、無制限に赦せという意味でもない。これは主のユーモアだと思う。ペトロと主とは赦しについての考えの次元がまったく違っていたのだ。そこで主はたとえ話をされた。6,000億円もの法外な借金を赦された家来が100万円を借りていた仲間を赦せず、投獄したという話だ。ペトロは自分を赦す者の立場に置いた。すると高慢になり、何回まで赦せばいいかを知りたくなった。でも、主は自分を赦された者と考えよと言われたのだ。主は十字架で私たちが一生かけても返せない法外な罪の負債を肩代わりしてくださったのだ。旧の礼拝讃美歌137番のとおり、「大いなるおいめ」を、赦してくださった主の愛を覚える者でありたい。 (人見)
②アブラハムの信仰:①アブラハムとの関係を、日本人は異邦人だからアブラハムとの繋がりはない、と考えていたが、ガラテヤ3:7-9に、信仰によって生きる人々は、異邦人であってもアブラハムの子、子孫とあり、信仰によって繋がっていることに目を開かれた。
②創世記15:4-7、子がないまま年老いたアブラムを神は夜、天幕から外に連れ出し、「天を仰いで、満天の星を数えてごらん」と言われ、「あなたの子孫はあの星のように数え切れなくなる」と約束された。信じる根拠は、神の言葉だけ。でも、彼は信じた。それがアブラハムの信仰。
③信仰とは何か。信仰は、神のみことばへの信頼です。私たちは状況を見て判断しがちです。しかし、アブラハムは違っていました。ローマ4:16-21を読みます。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの国民の父となりました。この信仰を私たちは頂いているのです。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2025-02-23 人見兄、浜田兄(31:00))