2024年11月24日
主日礼拝

マルコ6章3節:この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。
イエス様は神であったのに、私たちを救うために人となられました。家畜小屋で生まれ、貧しい大工の家庭で、父母に仕えて育たれました。そして、大工であった養父ヨセフから仕事を教えられました。その養父は若くして世を去ったようです。そう言えるのは、マリアの息子と言われているからです。これは異例です。養父ヨセフが亡くなって久しく、そのため、父の代わりに母の名で呼ばれたのです。ヨセフは家具や椅子、机、農器具(くびき等)を作っていた大工です。当時の父親は息子がある程度の年になると、職業訓練をするのが普通でした。ユダヤでは13歳になると成人と認められます。その年までにイエスはヨセフから大工仕事を教わりました。イエスは長男で、4人の弟、2人以上の妹がいました。そうすると、父ヨセフはイエスが13歳までは生きて、一緒に暮らしていたことが分かります。つまり、イエスは最も多感な時期に、自分を大工として独り立ちさせてくれた父を失ったのです。イエスは神を、父・アバ(お父ちゃん)という言葉で呼んでいます。失った父への思慕と、憧れがあったのに違いありません。父亡きあと、イエスは一家の大黒柱として、大工仕事で家族を養いました。そして、30歳で公生涯に入るまで、決して天に居たわけでもなく、恵まれた上流階級にいたのでもありません。日々の暮らしに追われ、明日の糧を得るために、日々働き、父亡きあとの母を慰め、家族を支えていたのです。神の子なのに、イエスは人の子として、ごくごく普通の子どもでした。神童や天才として、もてはやされていたのではありませんでした。だから、故郷の人々はイエスにつまずいたのです。       (浜田)

 礼拝讃美歌 98番:まぶねの中に産声上げ 大工の家に人となりて 貧しき憂い生くる悩み つぶさになめし この人を見よ。 

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-11-24 浜田兄)