では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。 (ローマ6章15節)
「律法の下では罪は罰せられるが、恵みの下ではキリストの故に赦されるから、罪を犯しても良い」と主張する人々が出て来ました。主イエスの血はどんな罪も赦し、清めてくれるから、罪を犯しても大丈夫だと。これは福音の曲解です。旧約時代には決して赦されなかった罪も、新しい契約の下では、主イエスの十字架の贖いによって全部赦されるのは本当です。だから、つい恵みに狎れて、神への畏敬の念が薄くなるとしたら…。決してそうではない!、と冒頭の聖句は断言しています。
歎異抄第13条を読みますと、何と似た現象かと驚かされます。どんな悪人でも救い、捨てないという本願を曲解する者が出て来たのです。仏の慈悲を誤解し悪事を犯した者を特に憐れみ、助けるのが仏の本願だからと言って、殊更に悪事を働き、往生のための行為だと合理化していたのです。そのような者たちのことを聞いた親鸞は、「薬があるからと言って、毒を好んではならない」と言いました。有名な第3条に、善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや、悪人をや、とあります。ここを誤解すると、悪人でいた方が救いに近いとなります。そうであはありません!悪人でしか有り得ない人間の哀しい本質、善い事をしたいと思うのに反対の悪をしてしまう。自分はどうしようもない悪人(罪人)であることを痛感している人のことです。
ヨハネ8章に、姦淫の現場で捕らえられた女の事が記されています。律法通りに石打ちにするか、赦すかを主イエスは問われます。策略が背後にあり、罠でした。この時、イエスはこの女が大勢の人々の前で、辱めなどの裁きを既に受けていることをご存知でした。十分過ぎる裁きを、女は既に受けていたのです。だから、私も罪に定めない(裁かない)と言われました。安易に赦されたのではありません。石打ちの死刑を受けるよりも辛い、さらし者にされる裁きを、彼女は受けていたからです。
主イエスの赦しは単なる慈悲ではなく、私たちの罪の刑罰を代わりに受ける十字架の死にあります。贖いです。そこに歎異抄との違いがあります。罪を犯すことは、キリストを十字架につけることになるのです。