2024年11月17日
主日礼拝
①ヤコブの手紙2章34節:人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
この手紙の著者のヤコブは、イエス様の兄弟で(マタイ13章55節)、特定の人あてではなく信者全般にあてた手紙であるため、公同書簡と呼ばれます。パウロは、信仰だけによって義とされると宣言しましたが、ヤコブは反対のことをいっています。しかも、義という言葉のギリシャ語は同じディカイオオーです。しかし、パウロは義という言葉に救いの意味を含めましたが、イエス様も福音書の中で七回使っていますが(マタイ11章19節等)、救いの意味は含まれていません。この箇所は、イエス様と同じ意味に捉えると「人は行いによって神に喜ばれるのであって、信仰だけによるのではない。」と読むことができます。救われた者は、神様に喜ばれたいと思うものです。それを御霊の実としてのよい行いで表せたならより神様に喜んでいただけると思うのです。(小林)
②マタイ5章44節:敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。非情な戦場で、衛生兵として働いていた彼は重傷を負った敵兵に遭遇しました。彼が敵兵を助ける静脈血漿を投与したのは、イエスの言葉の故です。敵兵であっても、神は愛されるから。
45節:父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。
自分は善人で正しい者と思うなら、自然の恵みは受けて当然と考えます。しかし自分が悪人だと分かるなら、それは当たり前ではなく、限りなく有り難いことです。五十嵐健治兄は「私ほど悪い者はいません。それなのにキリスト様は、そんな私の罪の身代わりとなって、十字架で死んで下さいました。こんな有り難いことはありません」と涙をもって言われました。Ⅰテモテ1:15-16:パウロは自分は罪人の中で最たる者(最も罪深い悪人)だと言っています。そんな私であっても救われた、と述べています。 (浜田)
礼拝讃美歌 494番 (信じる者は何人も 救わるるこそ恵みなれ ハレルヤ 主は成し給えり 血潮の全き贖いを)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-11-17 小林兄、浜田兄(18:00))