歎異抄第14条には、これまで犯してきた数えきれない罪と悪を消して、往生できるために念仏を称えることの是非が記されています。臨終の時どのようであるかが死後の在り方を決める、と思いがちです。それまでの生き方がどのようであれ、最期に念仏を口にすれば救われると教えられていました。しかし親鸞は、それをしないでも救われる、と説きました。第14条の口語訳:病気が苦しみを急き立てて、最期に念仏を称えられなかったらどうか。これまでの積もる罪は、どのようにして消したら良いのか。その罪が消えないなら、救われないのか。いかなる悪人をも捨てず、お救い下さる弥陀の本願にお頼り申せば、どのような思いがけないことが起こって罪を犯し、また、念仏を称えずに命が終わっても、ただちに往生できる。
ここで問われるのは、何のために念仏するのか、です。罪業を消す目的なのか、そうではなく、感謝報恩のためにするのかです。罪業があるままでは救われない、罪が赦され消される必要があるからです。ここで讃美歌85番の2節と4節を引用します。②主の恵みは浜の真砂(まさご) その数いかでか 計りうべき…④積もれる罪 深き汚れ ただ主を仰ぎて 救いをぞ得ん…。
中世ヨーロッパにおいて、教会は堕落し、免罪符を売り出します。免罪符というお札を買えば、お金がチャリンと箱の中に落ちた時、魂は天国に入れる、と救いを目的化し、献金すれば自動的に救われると教えました。これに反対したのが宗教改革者ルターです。罪を消すのはお金ではなく、上記の讃美歌にある、主の恵みと主を仰ぐ信仰です。そこで預言者ヨエルは、しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる(3章5節)と断言しました。主の御名を呼ぶのは、困難や死を前にして救われるためだけではありません。滅びに瀕した罪深い私たちを救うために、私たちの積もれる罪と深い汚れをキリストが全部その身に受け、身代わりの死を十字架で遂げられたからです。その尊いキリストの御名を、救われた喜びと感謝の心で、親しくお呼びするのです。名前は符号ではなく実体ですから、今も生きて臨在される主イエス様を心を込めてお呼びしたい。救われるかどうかは、主が決められることです。罪の問題も、私たちの力では消せない。罪の無いお方の血が流され、贖われる必要があります。
以上から、歎異抄に福音が暗示されている、と気づかされました。