2024年10月13日
主日礼拝

創世記3334節:ヤコブは…地にひれ伏した。エサウは走ってきてヤコブを迎え、…共に泣いた。20年ぶりの感動的な再会だ。「放蕩息子」のたとえ話を想起させるが、これは主が先行してヤコブを赦してくださった結果なのだ。しかも、二人の思いには微妙な差がある。兄エサウが弟の帰郷を素直に喜んでいるのに、弟ヤコブの態度はいかにも慇懃無礼だ。果たして、彼は兄の好意を悉く断った。兄の赦しさえ得れば、それで彼の目的は達せられたのだ。だから、これからは自分の思いどおりにしたかったのだ。事実、彼は理由を並べて、兄の許には帰ろうとしなかった。イスラエルという立派な名まで頂いたのに、この体たらくだ。これは私たちにとって反面教師だ。主の十字架の贖いですべての罪は赦された。それに安心して、勝手な振る舞いをしてはいないか。私たちも罪赦されたことに安穏とせず、主と共に歩むことが望まれているのではないか。         (人見)

マタイ5章43~48節父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5章45節)
ある家の玄関ドアに「誰の上にも/太陽をのぼらせ/雨を降らせてくださる/神の恵みと書かれていました。どんな人にも神は、自然の恵みを分け隔てなく与えられます。雨がAという正しい人の畑には降って、Bという悪い人の畑には降らないという事はありません。それは、神が天の父だからです。そしてイエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えました。自分には敵かも知れないが、その人にも家族があり、本当は優しい人かも知れないからです。
私は20歳まで、イエス・キリストを知らず「神なく、望みなく、さまよいし我」でした。その時でさえ、父なる神は太陽と雨の恵みを与えて下さっていたと気づきました。更に救い主イエス様を賜わり,十字架の贖いを備えて私を待っていて下さった、のだと。      (浜田)

 礼拝讃美歌 479番(神なく望みなく さまよいし我も 救われて主を讃むる 身とはせられたり)

 

 先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-10-13 人見兄、浜田兄(23:00))