主において常に喜びなさい。(フィリピ4章4節)

 信仰と喜びの関係について述べたのが、歎異抄第9条です。弟子の唯円が親鸞におずおずと尋ねました。「念仏を唱えても、うれしくて躍り上がるような気持になれません。どうしてでしょうか」と。すると親鸞は「唯円よ、お前も同じであったか」と答えました。「信仰に喜びがないのは、お前の信仰が弱いからだ。もっと念仏に励みなさい」と言われるのではないか、と思ったのです。ところが親鸞は、「わしも同じだ」と受け止めてくれたのです。更に、唯円は尋ねます。

「一日も早く死んで浄土へ参りたい心が生じないのは一体どうしてでしょうか」と。浄土(天国)が言語に絶するほどに素晴らしい世界なら、一日も早く死んでそこへ行く方が良いはずなのに、すぐには死にたくはなく、この世への執着から、浄土へ急いで行く気にはならないのです。どうしてでしょうか」と。すると、親鸞は「唯円よ、お前も同じであったか」と返答し、「わしも、お前と同じで、急いであの世(浄土)へ行きたいと言う気にならないどころか、ちょっと病気にでもなれば、死ぬのではないかと不安になっている」と答えました。続けて「それらは皆、煩悩のせいだ。辛く苦しい事が多くあっても、この世に執着して死を恐れる。また、救われた喜びがないのではないが、外側の状況に支配され、喜びよりも不平不満の方が先に出る始末。だからこそ、かえって往生するのは間違いないと思うが良い。そのように弱く、足りない者をこそ、如来は救おうとしてくださるのだから。だから、躍り上がるような喜びが感じられない自分を歎く暇にそのような者をこそ助けてくださる如来のお慈悲を思い、細々ながらでも喜ぶようにすべきだよ」と親鸞は弟子の唯円を諭したのです。

私はこの第9条に、何とも言えない感銘を受けました。あなたは如何でしょうか。私たちも唯円と同じ思いになります。信仰から来る躍り上がるような喜びのことです。ここで問われるのは、福音理解の深さと、それを妨げる罪の現実の受け止め方です。信仰と祈りが足りないから、喜びが少ないのではなく、恵みである太陽を遮る黒雲という罪に覆われるからなのです。だから、喜びは罪の問題なのです。もしあなたが唯円と同じ質問をされたら、親鸞のように答えますか。