あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリストイエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。  (フィリピ1章6節)

上記聖句の、善い業とは信仰を指します。信仰を始めたのは、決断した私だと思いやすい。そうではなく、始まりは神にあるのです。信仰を業と言っています。それは人を救う業ですが、最初から最後まで、私たち人間の側の働き(業)ではありません。上記の聖句は、そのことを語っています。信仰は私たちの業によるのではなく、徹頭徹尾、神の業なのです。このことと、歎異抄8条とが響き合っていることに驚かされます。

歎異抄第8条:念仏は行者のために非行非善なり。わが計らいにて業ずるにあらざれば、非行という。わが計らいにて作る善にあらざれば非善という。・・
(現代訳)念仏は、それを称える者にとっては修行でも善行でもない。念仏は、自分の考えで行うものではないから、修行でも善行でもない(非行)。また、自分の計らいで作る善事でもないから、善行ではない(非善)…。

念仏祈りに置き換えると、次のようになります。祈るのは私ですが、私の中でキリストが祈るのです。祈れない時は、私の内におられるキリストに祈っていただくのです。祈りとは、キリストに私自身を完全に委ねること、キリストと一つになることです。初めも終わりも、キリストがなさる業です。だから、信仰は恵みとして受け取るものです。祈りも同じ原理です。信仰と祈りが、自分から出ているのではないことに気づかされます。すべては恵みだ、と分かります。首藤兄が作られた礼拝讃美歌に、召さずば、開けずば支えずば、祈がずば…と歌い出されています。始めは君(主イエス)であって、私ではない。決して私ではない。始めも終わりも主イエスだからです。

主日礼拝に行くとき、主の招きに応じていることを覚えたい。そして、主が私の内側で祈ってくださるから祈れることも。もし主の恵みと助けがなかったら、私は何もできない者だから。神殿建築のために財産を献げる時、ダビデは、「このような寄進ができるとしてもわたしなど何者でしょう。…すべてはあなたからいただいたもの、それを私は御手から受け取って、差し出した(献げた)にすぎません」と祈っています(歴代誌上29章14節)。