2024年9月22日
主日礼拝

創世記3225節:何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。この何者かとは受肉前の主イエスだと思う。ヤコブは兄エサウの復讐が怖かった。それで主と格闘するかのように、必死に主の助けを祈り求めた。私は格闘するほどの祈りをしたことがない。この祈りの態度は見倣うべきだ。でも、彼は二つの点で間違っていた。第一に、兄を騙したのは主への裏切りとの認識がなかったこと。まず謝るべきは兄ではなく主なのだ。キリスト信徒迫害に燃えていたパウロもダマスコ途上で、「なぜ、わたしを迫害するのか」という主の御声を聞いた。第二に、兄の赦しを得るために多くの貢ぎ物を準備したこと。自力で赦しを得ようとしたのだ。主は私たちに何の代償も求めず、一方的に赦してくださった。ヤコブは腰の関節を打たれ、自力で戦えなくなった。弱さを体験したペトロに十字架の主も振り向いて、御顔を向けてくださった。これが真のペヌエルなのだ。        (人見)

黙示録21章4節:彼らの目の涙ことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも嘆きもない。この聖句は新しい天と地になる時、実現し世界は喜びに包まれます。笑みと喜び。抱いている私を見て生後2か月の孫が初めてニコッと笑い、心が通じた喜びに満たされた。いつも喜んでいなさい。キリスト者はどんな人であっても生涯を終える時、主イエスはその人を見て微笑まれ、喜んで迎え入れて下さいます。主の御顔の笑みこそ、私たちの最上の報い(礼拝讃美歌194番3節)。きよしこの夜の詞「…御子の笑みに/恵みの御代の/明日の光輝けり/ほがらかに」。薄暗い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたイエス様が、父や母を見てニコッと微笑まれた。その笑みに恵みに満ちた明日の光が、ほがらかに輝きます。悲しい事や自然災害の多い今、イエス様の御顔の笑みを思い、明るく朗らかでいたいものです。   (浜田)

 礼拝讃美歌 194番 (間もなく時過ぎん 苦しみはしばし 十字架を身に負い 御跡をぞ急がん 御顔の笑みこそ われの報いなれ)

     先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-9-22 人見兄、浜田兄(26:10))