だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(マタイ12章50節)
歎異抄第5条は、親鸞は、父母の孝養(追善供養)のためのみに念仏を称えたことは、これまで一度もない…、との驚くべき言葉で始められています。自分の父母が救われるようにと祈ったことは、一度もないと言っているのです。続けて、その理由が述べられています。先に逝った父母のために、孝養を尽くすことを否定しているのではありません。「自分の」父母だけに限定しないと言うのです。自分の親だけが救われたら、それで十分だとはしないと言っているのです。仏教には輪廻転生の教えがあります。他人と思っている人が、自分の親になるし、子にも孫にもなるからです。困っている人に対して、自分の親や兄弟や子どもだと思って助けたり、援助する心が説かれているのです。
冒頭の聖句は、主イエスが弟子たちと伝道活動をしていた時、母マリアと弟妹たちが訪ねて来た時のことです。その時イエスは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われ、弟子たちに向かって、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたのです。誰もが親族とか血縁の有無で、つい区別してしまいます。そして、自分の子どもだけ、自分の…と、限定してしまう。よその子と、うちの子とを分けて考えてしまいます。しかし、主イエスはすべての人の救い主であって、そこでは肉の繋がりは超えられています。その例として、カナの婚礼でぶどう酒が無くなり、母マリアが息子イエスに助けを求めた時、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです」と語られています。実の母親に「婦人よ」と呼びかけていまので、誰もが違和感を持ちます。主イエスは自分を産んだ母だけに限定されるお方ではないからです。自分の親だけ、自分の子だけの救いや繋がりに終始されるのではなく、すべての人を救うために、イエス様はこの世に来られたからです。
自分の子だけ、自分の親だけと限定する我執の心を親鸞は否定しました。韓国の李相淳兄は昔、自宅を開放して老人を預かって世話をされていました。その中には親族もいましたが、肉親と他人という区別を努めてしないようにしておられました。目の前に居る老人を、自分の親だと思って接していると言われました。「私だけのもの」という執着からの解放が課題です。