あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 (マタイ23章8節)
これは、群衆と弟子たちに語られた主イエスの言葉で、律法学者らが「先生」と呼ばれていたことが背景にありました。指導者であったパウロもペトロも「先生」とは呼ばれず、互いに兄弟と呼び合っていたことが分かります。先生(師)はイエスお一人だけだから。
歎異抄第6条:そこに「親鸞は弟子一人も持たず」とあります。仏教であれキリスト教であれ、信仰の道に於いては、先生となる指導者がいます。その先生に師事するのが弟子です。しかし、信仰はその先生が与えるものではなく、如来より賜るもの、と親鸞は述べています。自分の弟子ではなく、皆、如来の弟子なのだと。それなのに、そこを取り違えて、先生がそうしたかのように述べ、「私が彼を導いた、私によって信仰を得た」と言う者がいるが、そうした先生は「自分に背いて他の教師のもとで念仏しても救われない」と公言していたのです。とんでもない!人が人に信仰を授けるのではないのだから。そもそも自分の信仰についてさえ、自分の計らいや努力に依ったのではない。すべての功績を如来に帰して、弟子を私の弟子と思わず、自分も弟子も同じ如来の子だと言いました。これは当時の人々を大いに驚かせた。親鸞は皆から、親鸞聖人と呼ばれ、慕われました。親鸞亡き後、歎異抄を書き綴った弟子の唯円は、親鸞のことを思い出すたび懐かしさと慕わしさで胸が締め付けられたという。信仰における同朋同行(同じ仲間)を、親鸞は説いた。これはキリスト教においても同じ。信仰者が生まれるには、誰か人が媒介になります。しかし、その媒介となった人が信仰を与えたのではありません。そこが誤解されやすく、導いた人が称えられ易いからです。
主イエスは、何の罪もない神の子。その主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられる時「今は止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいこと」と、ヨハネに言われた。我々と言い私にとは言われませんでした。悔い改めを必要とする罪人の私たちと同じに立場(同朋同行)になられた主イエス様に驚かされます。そして、感謝が溢れます。私たちの身代わりになられるとは、そこまでなされるということなのです。