2024年9月29日
主日礼拝
①ヨハネ14章27節:わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 世界で局地的な戦争が拡大する状況下で、平和の理念に基づく五輪が開催された夏、日本は敗戦後79年を迎え、敵意によって殺し合う戦争の恐ろしさを知る世代が僅かになった。戦時中、小学生だった私が、どん底に陥った敗戦後の社会で、真理と生きる目的を求め続けていた時、小さく弱い者に神の御目が注がれ不思議な導きによりキリストの十字架による救いを与えられ、新生の喜びと平和(シャローム・神に起源する平安)を与えられた。冒頭の聖句は、主の平和を与える方法(十字架の救いを信じる)を示し(エフェソ2:14-18)、口語訳の「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」からは、主御自身の平安の意味(14章16節:聖霊が共にいてくださる霊的な永遠の平安)を示された。双方の訳から、主の平和が与えられる方法とその意味を、個人的体験からも気づかされて感謝です。 (柴川)
②マタイ5章38~42節:「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 私たちは、やられたらやり返すのが普通。主イエスは、それとは全く違う生き方を示されました。①右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい。右の頬を右手で打つには、手の平ではなく手の甲で打ちます。それは2倍の侮辱で、馬鹿にされて唾をかけられるのと同じ。②あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。上着=夜具にもなる衣服。それをも与えよ、と。③誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。義務だから仕方なくするのではなく、義務以上のことを快くしなさい。④求める者には与えなさい。相手の立場になって考えること。以上の事を主イエスは私たちに代わって、すべて行われました。その主に従い、倣う者でありたい。最後に、やられてもやり返さない生き方を示すために、「泥かぶら」というお話をします。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-9-2 柴川姉、浜田兄(27:45))