イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコ9章23節)
半信半疑の父親に向かって、主イエスは上記のように言われた。信じる者には何でもできる、と。何でもという言葉に疑問を持つかも知れませんが、それは私たちの現実が、そうだからでしょう。
歎異抄第7条:念仏者は、無碍の一道なり。…と、あります。無碍=何物にも妨げられないこと。一道=唯一の道。信じて念仏を唱える者には、成し得ない事は何もない。どうしてか。悪魔の世界(魔界)、いかなる外道も障碍(妨げ)なしだから、とあります。更に私たちの罪業も、善業も及ばないから、とあり、念仏者を妨げるものは何もない(無碍)、唯一の道だと言い切っています。それが「念仏者は無碍の一道なり」の意味です。これは冒頭の聖句でイエスが言われたのと同じ事だと言えます。神が障碍をすべて取り除き、その人と共に働かれるから何でもできるのです。
歎異抄は後に禁書として封印されたのは、仏教を超えた書物だったからです。聖書の福音に限りなく近い教えが記されていたからです。だから、宗教を超えて人を救う福音が読み取れるのです。
親鸞は魔界と表現しました。聖書は悪魔とその手下である悪霊の存在を明記しています。誘惑者として、私たちを神から引き離そうとしています。悪魔はサタンと呼ばれますが、抽象的な存在者ではありません。異端の教えとその組織を見れば、悪魔が如何に巧みに働きかけているかが分かります。また、世の中にある闇の働き(闇金融・詐欺など)の背後に、それらがうごめいています。今なおこの世は、この世の君である悪魔が支配しています。独裁者の背後にも同じ闇が働いています。しかし、神は悪魔以上の力と権威を持っておられます。そして、主イエスは王の王、主の主。悪魔は、そんな主イエスをも誘惑しましたが、ことごとく敗退しています。そして今は、天から追放され、地上に落とされ、自分たちに残された時が少ないのを知って暴れ回っています(黙示録12章12節)。念仏は祈りです。イエス様の御名で祈るキリスト者の祈りを、誰も妨げられないのです。無碍の一道です。だから、もしお出来になるなら…と祈ってはなりません。聖書の約束を信じて、既に得られた、と感謝するのです