2024年8月11日
主日礼拝

詩編42編10~12節:わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。」この御言葉が示す祈りが神に聞かれていないと思える時に、どう対応したらよいかを3つ述べます。神からの返事がもらえなくても、どんな絶望の中にいても、聖書は「神を信じて待ち望めば、神は必ず答えてくださる」と教えています。ローマ8章32節の御言葉を心に刻み付けたい。あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ(ヨブ35:14)。それは何事にも時があるから。神の時に自分を合わせることです。キリスト教は約束の宗教。その1つは神による人間救済の約束で、イエス・キリストの降誕・十字架・復活によって成就し、ご再臨だけになっている。2つはこの世を生きる信仰者への約束。何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる(Ⅰヨハネ5:14)。神の御心に適うことを祈り、願っていくことです。          (百瀬)

②ルカ152532節:お前のあの弟は…いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。これは放蕩息子の父が、兄に語りかけた言葉。兄は弟の帰還を喜んでいないばかりか、歓迎する父に激怒しています。自分には子山羊1匹もくれなかったのに、あいつがしたい放題して落ちぶれて帰って来ると肥えた子牛を屠るとは、と。自分は正統派だとするファリサイ派は、異邦人や罪人を受け入れず、兄弟と認めない。そこでイエスは兄の話も加えた。弟も兄も父の心を理解せず、いなくなっていた者です。兄は、人の救いや喜びを一緒に喜べない。聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」(ロマ12:15) とあるのに。人として当たり前の態度が取れない宗教を示しています。私たちはどうでしょうか。  (浜田)

 先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-8-11 百瀬兄、浜田兄(25:30))