ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 (使徒15章1節)

 

初代教会は「信仰だけでは救われない。割礼を受ける必要がある」との教えに惑わされていました。これは信仰にとって由々しき問題でした。そこでエルサレムに使徒たちが集められ、話し合いました。そして、信じるだけで救われる、と決議しました。それと似た出来事が、歎異抄の第2条に記されています。

京都に住む親鸞の許に、関東から長い道のりをものともせず信徒の代表者らが訪ねて来ました。それは、親鸞の息子の善鸞が「父は私に奥義を伝えた。念仏を唱えるだけでは救われない。もっとしなければならないことがある」と、信徒たちに教えていたからです。それを聞いた者たちは驚き、懐疑しました。そして、本当にそうなのかどうかを尋ねるために、やって来たのです。そうした熱心な信徒たちに親鸞は次のように語ります。「皆さん方は、はるばる遠い関東の地から私を訪ねて来られた。それは、救われるための信仰について聞くためでしょうが、私は念仏を唱える以外に何も知らないのです。何か奥義のような経典があるのを知っていながら隠しているのでもない。ただ念仏を唱える以外に私は救いの道を知らない」と言われて、信徒たちは安堵します。善い行いをしないと救われない、冒頭の「割礼を受けないと救われない」との教えは、いつの時代にも入り込んできます。それに対して「念仏を唱えるだけ」と「キリストを信じるだけ」が結びつきます。「だけ」に込められた思いは、自分の無知と無力さを知った者が口にでき言葉です。

主の名を呼び求める者は皆、救われる(使徒221節)
主イエス・キリストの御名を呼び求めるのが信仰ですが、その信仰は、自分が努力精進して得たものではありません。恵みとしていただいたものです。パウロは「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」と、コリントの信徒たちに書いています。信仰によってキリストの命を受け取った者は、主の御名を呼び求めずにはいられません。主イエスは「恐れず、ただ信じなさい。そうすれば救われる」と言われました。ただ信じるとは、学問や理屈を超え一筋にキリストを信じることです。