2024年8月18日
主日礼拝
①モーセは、とても立派な預言者でリーダーでしたが、失敗もしました。主は「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」と仰せになりましたが、モーセは「その杖で岩を二度打つ」ことで水を出しました。これは、主ではなく、われわれが「あなたたちのために水を出さなければならないのか」という高ぶりの気持ちがあったためです。これが主の怒りを買います(民数記20章6-13節)。その後、物語は進み、約束の地を目の前にして主は「あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。」(申命記34章4節)と言われます。それは、神の義は罪を絶対に赦すことは出来ないからです。もし人の頑張りで罪が赦されるならば、十字架は不要になります。人は、イエス様の十字架の贖いにすがるより他に救いの道はないのです。また、モーセの最期に、主は神の義により入れることは絶対にできないけれど「あなたがそれを自分の目で見えるようにした」と、約束の地を見せて下さいました。それが、神の憐みだったと思うのです。 (小林)
②Ⅰコリント10章1~6節:彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。今語られた「モーセが二度打った岩」はキリストです。旧約に於いてもキリストは働かれていたことが分かります。不信仰な者たちであっても決して見捨てず、離れることなく荒れ野を共について来られた岩なるキリストから、民は水を飲んだ。岩には語りかけるだけで良かったのに、二度も打った。それはモーセの罪だが、決して他人事ではない。自分をそこに置いて読むのです。
詩編66編6節:葦の海とヨルダン川が二つに分かれた壮大な奇跡を描き、「それゆえ、我らは神を喜び祝った」と記す。喜び祝ったのはモーセら先祖だから「彼らは」と書くべきなのに「我らは」と書き、その場に自らを置いた。それが聖書の読み方であり、聖書の歴史の読み方なのです。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-8-18 小林兄、浜田兄(19:50))