イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」 (マルコ217節)
 

私たちは皆、医者を必要とする病人です。なのに自分は丈夫で、正しい人と思っています。しかし、自分の本当の姿は罪深い者(病人)であると気付いた人は、キリストの招きに従います。そして救われるのです。主の眼差しは、寄る辺のない罪人に注がれています。分かっていても、分かっているようにできない分裂を抱えているのが罪人です。魂の医者であるキリストの許に、行かずにはいられないのです。

歎異抄は言う。善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世の人つねにいはく、悪人なほもて往生とぐ、いはんや善人をや、と。・・・。  (歎異抄第3条)
往生とありますが、きてきる(生まれる)の意味で、来世の命を得ることです。いを意味します。そして世の人は、悪人でも救われるのなら、まして善人は救われると考えるもの。ところが親鸞は「善人が救われるのなら、悪人は言うまでもなく救われる」と言ったのです。歎異抄の中で、最も有名な個所です。

続けて歎異抄は、その理由を善人=自力作善の人は自ら善を励み、自分のなした善によって救われようとするからだと述べています。自分に頼るのです。それに比べて悪人は、自分には何ら善をなすことができないと知っているので、ひたすら弥陀の他力にすがり、その憐れみに依り頼む。だから、善人でも救われるのなら、ましてや悪人をや、と言ったのです。

ここで言われている悪人とは、犯罪者と言うより、自分自身の罪深さを知っている人のこと。自分は本当に悪い人間だと自覚している人のこと。それに対して善人とは、自分は善い人間で、愛もあると思っている人のことで、罪人だとは思っていない人のことです。しかし正直な話、自分を徹底的に悪人で罪人だとは、なかなか思えないものです。そのような私たちでも、キリストから来る神の光に照らされると、それまでは見えなかった罪に汚れた自分の醜い姿が示されます。そして「私ほど罪深く、悪い者はいません」と言える人に変えられます。罪人としての自覚で、自ら低くなり、砕かれた魂とされるのです。ここに、宗教を超えた信仰の極致が語られているのではないでしょうか。