わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 (ヨハネ10章28節)

 これは主イエスの言葉です。彼ら=「わたしの羊」と呼ばれています(27節)。主の御声を聞き分け、それに従う者=聖徒のことです。彼らは幾多の誘惑に遭いますが、主が守り続けてくださるので、決して滅びることがありません。そのことを「聖徒の堅忍」の教理として学びました。冒頭の聖句が、その根拠です。信仰の弱い者には何とも有り難く、力づけられます。

歎異抄の最初(第一条)に、摂取不捨の利益に与る、とあります。摂取不捨とは、阿弥陀如来のお助けは永遠で、変わりがないことを指しています。それと比べると、私たちは変わりやすく、信仰から離れることも多々あります。しかし、慈悲深い親は背く子らをも、決して見捨て見放したりはされない。こちらがいくら離れようとしても、慈悲の御手でこちらの袂を取って放さないのが「摂取不捨」の心です。
私が高慢になろうとする時には、私の頭を打って低くしてくださる。私が卑屈になろうとする時には、私の手を取って引き上げてくださる。私が悪をしようとする時には、御手を当ててその道を塞いでくださる。私が善をしようとする時には、その道を教えてくださる。そのように日常の万事万端について、私は摂取不捨の有難みを受ける。かくのごとく如来は摂取不捨の慈悲ゆえに、現世において常に守られ導いてくださる私は、未来もまた必ず喜びの国に導かれるに違いないと信じて喜んでいます。もし、このことが信じられないなら、人生に於いて今日のような明るい希望が得られなかったに違いない。如来を信じた今の境遇が有り難くてなりません。私は時に如来の寵児であるように感じて、うれしくて堪りません。

以上は暁烏敏という仏教者の言葉ですが、最初に記した「聖徒の堅忍」と同じであることに気づきます。仏教は異教ではなく、旧約だと言われる所以です。では違いはどこにあるのか。それはイエス・キリストの十字架にあります。慈悲は同じでも、自らが傷を負うかどうかの違いです。北森嘉蔵著『神の痛みの神学』参照。聖徒の堅忍と摂取不捨に示された真理に触れ、賜った信仰の背後に働かれている神に目を留め、喜びを持って感謝したいものです。