2024年5月26日
主日礼拝
《建徳要旨》
①マルコ5章25~31節:イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいて。
キリストに触れた者は、キリストから力が流れ出て、癒されている。この方の服にでも触れれば癒されると信じた女性の信仰が、キリストから力を引き出した。マルコ6章56節:触れた者は皆いやされた。今、キリストは歴史上の形ある人ではない。どこに行けばキリストに触れられる?教会はキリストの体だから、礼拝、パン裂き、聖書、祈りによってキリストに触れている。そうした恵みを受けるツールを積極的に求めよう。そして、信仰によってキリストに触れ、主の中にある無尽蔵の力と冨を受け取りたい。ヨハネ15章4-5節。キリストはぶどうの木、わたしたちはその枝。枝は幹に繋がっていれば良い。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。そのために私たちは生来の台木から切り取られ、キリストという台木に接ぎ木されたのです。 (浜田)
②ヘブライ11章1節:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
信仰とは神様を単に感覚に訴えるような表面的な知り方ではなく、実際の存在・事実として知ることです。ではこの信仰をどうしたら得られるのでしょうか。聖書を読む事、聖書のお話を聞くことです。そうして信仰の確信が与えられるのですが、そこから離れないためには、どうすれば良いのでしょうか。信じると与えられる素晴らしい事と、信じないとどうなるかを自分の心にしっかりと刻み付けることです。ヨハネ15章5~7節。キリストにつながっている人は豊かに実を結び、望むものは願えば何でもかなえられる。何という素晴らしい恵みでしょうか。反対に、キリストにつながっていない人は、外に投げ捨てられて枯れる。そして、火に投げ入れられて焼かれてしまう。この彼我の差は何と大きいことでしょうか。マタイ16章26節を読みます。最後に、コヘレト7章18節。 (百瀬)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-5-26 浜田兄、百瀬兄(18:30))