15、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん。  (主の再臨と最後の審判)

イエス・キリストが、天より再来されることを「再臨」と言います。クリスマスに人となられ、十字架、復活、昇天、聖霊降臨は既に果たされました。使徒信条は「かしこより」と、父神の右の御座から来られることを言い表しています。救いの完成のために来られるのですが、それと同時に、審きをなすためです。今生きている者たちと、死んだ者たちがその対象です。

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。   (Ⅱコリント5章10節) 

最後の審判と聞くと、ミケランジェロの大壁画が有名です。中央に、怒れるキリストが描かれています。その裁きの座の前に立つのですが、びくびくする思いになります。しかし、上記の聖句の前の6節と8節に2回「心強い」と書かれていることに目を留めます。そして中世の信仰問答書に、「主イエス・キリストが来られて、審きをされるということは、私たちに何かの慰めを与えるでしょうか」と問い、「はい、非常な慰めです。キリストが現れるのは、私たちの救いのためだからです。だから、私たちは最後の審判を恐れ、おののくべきではありません。キリストは私たちの弁護人だからです」と、答えています。これはどういうことでしょうか。審判者であるキリストは、私たちが受けるべき神の裁きを既に、私たちに代わって十字架で受けてくださったからです。だから、私たちが神の審判の前に立たされる時、地獄への滅びを宣告されることはないのです。神の審きはキリストが代わって受け止めてくださったからです。

現今の世界情勢を思うと、神の義しい審判によって悪の闇が取り去られ、キリストの愛と平和の光が全世界を包むことを祈らずにはいられません。「主よ、来てください」と申し上げれば、「わたしは、すぐに行く」と応えて下さいます。聖書の最後は、その言葉で締め括られています。以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主よ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。(ヨハネ黙示録22章20、21節)