16、我は聖霊を信ず。  (使徒信条)

 これまで、天地の造り主である全能の父なる神と、その神の独り子である主イエス・キリストについての信条が記されました。分量的にはイエス・キリストに関するものが一番多いのです。それと比べると、聖霊に関しては「聖霊を信ず」とだけ述べられています。

聖霊=聖なる霊である神を信じるとは、聖霊が人格を持つ神だと信じることです。単なる霊ではなく、意志や感情を持っておられるお方として信じるのです。しかし、多くの人が抱くのは「聖霊って分かり難い」との思いです。単なる力や影響力(英語のit=それ)ではなく、父神と子なるキリストと同じ人格(神格)を持っているお方です。神様とかイエス様と敬語的に様を付けますが、聖霊に関しては聖霊様とは言わないことが多い。そして、何となく捕えがたい印象を持ってしまいます。私もずっとそのようでした。しかし、使徒言行録を読むと、聖霊が使徒たちに命じたり、禁じたりしているのに気づきます。姿形は見えないのですが、私たちに働きかけておられるのです。「聖霊を信ず」とは、神御自身である聖霊が、私たち信じる者の中で生きて働いておられることを信じるということです。最善に導いてくださる聖霊の導きに、従順に聞き従う者でありたいものです。

聖霊は弁護者であり助け主として私たちの許に遣わされます。いつも共にいるだけでなく、弁護し助けてくださいます。しかし、聖霊は極めて謙虚なお方なので、ご自分を隠されます。ご自分がなさったのに、私がしたとは決して言われません。その聖霊をイザヤは「まことにあなたは御自分を隠される神」(45章15節)と預言しました。自分の手柄を誇り、私がしたと主張しやすい私たちよりも、ずっと謙虚です。それは主イエスも同じですが、特に聖霊に於いて顕著です。それゆえ私たちが、その主導権を聖霊に委ねるのを待っておられます。私たちの心の戸を叩かれますが、決して私たちの思いを無視して入っては来られません。私たちが心の戸を開けるのを忍耐強く待っておられます。そこに、悪霊との決定的な違いがあります。悪魔や悪霊は不法侵入者ですから。だから、聖霊なる神に心を開き、自らの主導権(頑なな自我)を聖霊に明け渡すことが必要なのです。それが聖霊を信じることです。