2022年9月11日
主日礼拝

《建徳要旨》

①コロサイ1章24節:キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしていますというパウロの言葉ってチョット変ではありませんか。キリストの十字架の御苦しみは完全無欠です。人が補う必要はありません。パウロはなぜ、こんなことを書いたのでしょう。
第1は、パウロの皮肉です。当時、霊は十字架で救われても、肉の救いには禁欲と修行が必要と説くグノーシス主義がコロサイに潜入していました。もし、修行が必要なら、自分が引き受けようと皮肉ったのでしょう。
第2は、パウロの決意です。私たちはキリストの苦しみを多くの人々に伝える務めをいただいています。まだ届いていないところに喜んで伝道しようとの決意です。
第3は、パウロの自戒です。恵みとしていただいているキリストの苦しみにもっと与かりたい、自分はまだまだ不十分だと言っているのではないでしょうか。この点は私も同じです。        (N.H)

②ヨハネ14章16節:父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。主は世を去る時、弁護者(真理の霊、聖霊)を与える約束をされました。聖霊は聖書の御言葉を教え導き、主を証しできるように与えられた神の賜物です。ペトロは、福音を聞いて悔い改め主イエスの御名によって洗礼を受ければ、賜物として聖霊を受けると説教し、約3千人が受洗。パウロも、霊的な賜物聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」とは言えないと述べています(1コリント12章3節)。初信とか聖書知識とかに関係なく主を信じる者に等しく与えられる恵みです。さらに、救われて神の国を受け継ぐ者だという証印を聖霊によって押され、保証されているのです(エフェソ1章13,14節)。この賜物を深く自覚していなかったことを反省し、弱く不充分な者ながらも主を讃美礼拝し、奉仕、執り成しの祈りなどの幸いな務めに与らせていただきたいと願いました。(E・S)

 先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2022-09-11 N・H兄、E・S姉(20:35))