『ラビ・ベン・エズラ』(第30連)
下を見るのではなく 上を仰ぎ見よ!
杯の用いられ方に 目を注げ
婚宴の席 ランプの煌(きら)めき ラッパの響き
新しい酒 泡立ち溢れ 主の唇は燃えて見える
天の完全な杯よ あなたに地の轆轤(ろくろ)は必要か?
私たちは土から作られた器として、神の轆轤で形作られてきました。それが完成する(地上の生涯が終わる)と天へ引き上げられます。だから、下(人や物事)を見るのではなく、上なる天(神)を仰ぎ見よ。あなたは地の轆轤から取り外され、天で主の御用に供されます。福音の新しいぶどう酒は、小羊の婚礼の宴席で飲まれますが、一人一人はその杯に例えられています。婚宴の席には世の光であるランプが煌めき、世の終わりのラッパが鳴り響いています。人生という轆轤で造形された土の器が、今や見事な聖杯として完成し、キリストは泡立つ酒(聖霊)をこれに注ぎ、無上の喜びと微笑みを持って飲み干そうとされます。すべて比喩ですが、死後のことがこのように表現されていて、驚かされます。
第31連:
しかし神よ かつてのように今もあなたを要す
人を形作られる神よ 轆轤の旋回が最悪であった時ですら
人生の轆轤に束縛され おびただしい色香に惑わされても
あなたの渇きを癒す 私の目的を誤ることはなかった。
作者は31連でも比喩を用いて、老年期とそれに続く死を表現します。死は地上の轆轤から取り外され、神の御許へと移されること。地上を離れた今も、私は神を必要としています。人生を振り返ると、最悪の時もあった。おびただしい色香に幻惑されたり、人との比較から来る羨望や落胆もありました。それでも、私という杯が作られた目的が何であるかを、誤ることはありません。人生の目的であり、自分がここに在る意味です。それは、神の渇きを癒すこと。杯に盛られた飲み物が、神の渇きを癒します。こうした発想に、まず驚かされます。私たち人間の側の渇きが癒される、というのではないからです。せめて、神の渇きを癒す杯になりたい、との願い。十字架の上で主イエスは「渇く」と言われました(ヨハネ19章28節)。十字架上の渇きは肉体の渇きだけではなく、一人でも多くの人を救いたいとの神の渇きです。その渇きを自分も感じ、その渇きを癒す目的のために私は杯として作られた、とは驚くべき発想の転換です。