1、ヨブ6章14節:絶望している者にこそ 友は忠実であるべきだ。さもないと、全能者への畏敬を失わせることになる。これはヨブが友人に向けた言葉。26節にも、絶望の語がある。酷い患難は罪の結果だと断定する友への反撃が上記の聖句。ヨブは絶望し、自分をも神をも見失う(神への畏敬を失う)。絶望は死に至る病で、対極は罪の赦し。余命宣告や失明の中で自殺を図る2人の青年の例。途中失明の原因は、御先祖を粗末にした罪だと言われ岩橋武夫は激しく反論。そして、点字四福音書を読み始め、ヨハネ9章の盲人へのイエスの言葉「この人が生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果ではない。神の業が現れるためである」に、捕らえられる。私たちは絶望している友や知人に、どのように語るべきか。続くビルダドは情け容赦なく、ヨブの子らの死は罪の結果だと言い切る(8章4節)。正論必ずしも人を悔い改めに導かない。そうした反面教師の例として3人の友は登場し、ヨブに論戦を挑む。 (K・H)

2、ヤコブ1章2~8節:いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。主は、「あなたは信仰を試されて忍耐し、その忍耐を通して、完全で申し分なき人に鍛え上げられるのだから、主からの試練を喜べ」と言われる。主は私たちが、本気で御自分に願い事を祈り求めて来るのを待っておられる。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7章7節)、「私の声を聞いて戸を開けるなら」(黙示録3章20節)。 私は、聖書全巻を何度も通読させてください、と祈り求める。主の御心を深く知らされて感激し、言葉を尽くして主の素晴らしさを言い表す者にならせていただきたいから。私が問われているのは、本気で主を信じているのか、自分の体を打ちたたいて服従させているのか、だ。 (S・K)

礼拝讃美歌 481番(ああ嬉し我が身も主のものと)
礼拝讃美歌 335番(救い主イエスと共に行く身)

(聖書の言葉)
イエスはこれ(娘が亡くなった)を聞いて会堂長ヤイロ に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。 そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8章50節)

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-08-16 K・H兄、S・K兄(26:25))