青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢に
ならないうちに。 (コヘレト12章1節)

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ(口語訳)と、語りかけている。老人になると「もう何の喜びもない」と言うようになるから、そうならないうちに、あなたの創造主を覚え、信じなさい、との奨め。

続く3~5節で、老いによる肉体の衰えが描写されている。家を守る男(手)も震え、力ある男(背骨)も身を屈める。粉ひく女(歯)の数は減って行き失われ、目は白内障などでかすむ。通りでは門が閉ざされ(耳が遠くなり)、粉ひく音はやむ(食欲が無く、多く食べられなくなる)。鳥の声に起き上がって(朝早く目が覚め)、歌う声も低くなる。あめんどうの花は咲き(頭が白髪になり)、いなごが重荷を負い(歩くとヨロヨロし)、強精剤アビヨナも効果がなく、気力もなくなりついには死に至る。ここを読みながら、老いは、洋の東西を問わず、昔も今も同じと分かる。聖書は決して古くない。今の私たちにもピッタリ当てはまる。

コヘレトは「老い」「死」という直接的な言葉を、一語も使わずにそれを表現している。老いの先の死を人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る(葬儀の準備がなされる)。白金の糸(美しい命の糸)は断たれ、黄金の鉢(かけがえのない身体)は砕ける。泉のほとりに壺は割れ(心臓が止まり)、井戸車は砕けて落ちる(循環機能が停止する)。塵は元の大地に帰り、霊(息)は与え主である神に帰る(息を引き取る)、と記す。(上記の太字は聖書本文で、括弧の中は、その意味。)

或る有名なタレントが、親類の五十嵐健治兄から、「そろそろ聖書を読み、信仰の事を考えたら?」と、勧められた。彼は、もう少ししてから、と答えた。しかし忙しさにかまけて、先延ばしになっていた。そして、突然病に倒れ、60歳で帰らぬ人となった。その人の名は藤山寛美。喜劇役者として超有名であった。五十嵐兄のお宅には、藤山寛美と一緒の写真が壁に掛けられている。若い日に、自分の創造主を信じ、礼拝し、聖書を糧として生きるよう、コヘレトは勧めている。その時は、今。先延ばしせず、老いという苦しみの日々が来ないうちに、今、信じる者でありたい。