①ガラテヤ6章11~18節:このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
贈り物に対する返礼の態度に、恵みの理解が表されている。当時、信じるだけでは不十分で、割礼を受ける必要があると説く人々がいた。割礼に当たるのがお返し。受け取るだけではなく、ちょっぴり何かしたい。ただで受けるのには抵抗があるから。何か慈善行為をしないと…と考えてしまう。新興宗教はその辺りの心情を巧みに捕えて、信徒たちに駅の掃除を朝5時起きして実行しなさいと教えている。そうした教えにパウロは「否!」と言った。神の一方的な恵みは、ただ受けるだけ。そして誇るのは主の十字架だけ。私の身にはイエスの焼き印=brand(銘柄の意)が押されている(17節)。キリスト・ブランドに優るブランドはない。それが主の十字架。(人見兄)
②Ⅰコリント1章18節:十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
復活の主が言われた通りに網を打つと、153匹もの魚が獲れた。網はネットで、インターネットに通じる。今の時代はこの網を用いたい。その時、語り伝えるのは十字架の福音。しかし、それは愚かに聞こえる。しかし神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救われる。だからパウロは「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めた」(2:2)と書いた。信仰で最も大切なのは、キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファに現れたこと。 (浜田兄)
建徳の録音です。
(建徳 2019-08-25 人見兄、浜田兄@23:45)