「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」 (詩46編11節)
直訳は、「お前たちは止(や)めよ、そして、わたしこそ神であることを知れ。私は国々の中で高くされて、この地で高められる」となる。武器を置け、それ以外の考えを捨てよ、の意味。別の訳では、静まって。「やめよ。知れ。わたしこそ神」(新改訳)。人間的な考えや力を捨てよ、となる。戦いに於ける勝利や、本当の平和はどこにあるのかが示されている。私たちの個人的なことに於いても、この原則は生きている。また
祈りにも生き方に於いても、然り。
水泳を習っていて、何度も注意されたのは「力を抜きなさい。力を抜いて、水に身を任せなさい」であった。頭で考え、その通りに泳ごうと一生懸命になればなるほど、体は思うように動かない。上手な人の泳ぎを見ると、いとも楽に見える。力を抜かねば、と努めると返って硬くなる。何の作為も持たず、信じて身を委ね、任せる。その時、信仰と祈りも同じ原理だ、と気づいた。自分を全部委ね、自分が無くなること。自分とは、自意識、自分がしているとの意識。自我とも言いかえられる。人前で祈るとき、このことが必要だと示される。人に聞かせる祈りは、つい長くなってしまう。肩の力を抜いて、主に委ねて祈る。その祈りは自分ではない者の祈りに近づく。すぐにはそうならないが、それに近づくことはできるから。自分ではない者(御方)が、私の中で祈られる祈りこそ、聖書が求める祈りで、冒頭の聖句に通じる。
昔、礼拝前におしゃべりしていると、主の御前ですぞ、と注意されたと聞く。先輩らは礼拝に於いて、主の臨在を覚え、主の御前を覚えた。目には見えない霊的キリストが、目に見えるパン裂きテーブルと共に臨在される。その御前を覚える。その御前に出ると、この世で身に着けている肩書・名誉などは消え去り、1人の哀れな罪人でしかない。にもかかわらず、キリストの故に赦され、神の子として迎えられている。これまでどんな人間だったかという過去は、一切詮索されないのも同じ。力を捨て、止めるとはそうすること。主イエスの臨在される所にこそ、重荷を下ろし安らぐことが出来る。礼拝の場であり、祈りの場こそが、それであるし、そうであってほしいとの願いを祈る。