神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ローマ2章4節)

オリンピック開会式の担当者が解任に追い込まれたことを受け、ある方が「私だって恥多き人生で、やっちまったと物凄く後悔していることとか、私なりに反省していることとか、お詫びしたいということは一杯あります。そっちの方が多いかもしれない。善行なんか積んでないし」と告白した。それでも、立ち直れたのには、最終的に手を差し伸べてくれた人の存在があったからだという。そして、A「失敗を責めてくれた人の言葉もありがたいのですが、許さんと言ってくれた人の言葉も受け止めますが、『頑張ろうよ』とか、『罪を償ったらまた一緒にやろう』と言って下さった方によって、私は本当に反省と後悔をしました」と、自らの失敗談を振り返っていました。

冒頭の聖句を読んで意外だなと思うのは、人を悔い改めに導くのは、「神の憐れみ(慈愛)」とあることです。むしろ反対に、厳しく叱責されたり、間違いを糾(ただ)されたら、人は悔い改めると考えがちです。しかし、そうではないのです。憐れみや赦しによってこそ、本当の悔い改めが起きるのです。それを示す実際の言葉が上記のAです。厳しい叱責やバッシングよりも、優しい慈愛に満ちた言葉や励ましの方が、本当の反省と悔い改めに導くのです。自分のことを振り返ると、本当にそうだったなと思い当ります。

『レ・ミゼラブル』の中で、主人公ジャンバルジャンは銀の食器を盗むのですが、その罪を本当に悔い改めたのは、ミリエル司教の愛と憐れみの言葉に接した時です。彼は涙を流して悔い改めます。そして、ミリエル市長へと生まれ変わるのです。私もそのような言葉を語れる人にならせてください、と祈ります。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。」 (詩編130編3,4節)
厳しく罰せられるからではなく、罪を赦されるから、人は神を畏れ敬うのです。
(2021年8月1日)