2021年8月1日
主日礼拝

《礼拝》
礼拝讃美歌⇒9番(旧6番)
『取柄あらぬ』

聖書⇒エフェソの信徒への手紙1:17~19節
『どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。』

礼拝讃美歌⇒281番(旧110番)
『御顔拝し』

聖書⇒イザヤ書57:18~19節
『わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。』
聖書⇒マタイによる福音書11:28節
『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』

礼拝讃美歌⇒313番(旧84番)
『主に頼る者は』

 

《パン裂き》
聖書⇒マルコによる福音書14:22~26節
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。』
礼拝讃美歌⇒148番(旧94番曲)
『主の御旨により』

 

《建徳》

聖書⇒創世記39:1節
『ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。』

聖書⇒創世記39:2~6節
『主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。』

聖書⇒創世記39:21~22節
『しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。』

聖書⇒創世記39:7~20節
『これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。そして、主人に同じことを語った。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。』

聖書⇒創世記39:21~23節
『しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。』

聖書⇒マタイによる福音書5:27~28節
『「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』

礼拝讃美歌⇒508番(旧243番)
『イエスとともにわれ死に』

 

《建徳要旨》

「神、共にいます」

創世記39章:聖書は行間を読むもので、小説との違いは心理描写がないことです。もし心理描写を書けば、解釈は固定されます。それを書かないから、何度読んでも新しい発見があるのです。それが聖書です。

エジプトに連れ去られたヨセフにつながるのが横田めぐみさん。1977年11月、北朝鮮の工作員に拉致され約40時間、船倉に閉じ込められた。「お母さん、お母さん」と泣き叫び、出入口や壁などを引っ掻いたため爪が血まみれだった,という。ヨセフの心理は如何に。 2節主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。売られて奴隷にされたヨセフ。あれから10年近い年月が過ぎ、今はすべてが順調だった。主が彼と共におられたから。3節にも主が共におられ、とある。物事がうまく運び、状況が良いから主は共におられるのでしょうか。私たちはともすれば、そのように思ってしまう。そうではなく21、22節のように、冤罪で牢獄に入れられた時(そんな時こそ)主は共にいてくださるのです。これは、しっかり心に刻んでおきたい。牢獄の中に恵みなどない、病気の中で何が恵みかと思うから。しかしそこにも主は共におられるのです。そんな彼の上に誘惑の手が伸びる。ヨセフは母親譲りの美しい顔立ちで、体つきも優れていた(6節)。そのため、主人の妻は「私の床にはいりなさい」と命じます。性の誘惑です。彼女は断られても、毎日言い寄ります。しかし一切拒否します。もし女主人の誘いに屈していたら、ヨセフは苦しみ、堕落したに違いない。誘惑に遭ったら、戦おうとせず逃げることです。主イエスは「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るよう教えました。性だけでなく、お金やギャンブル、身近な事では甘い食べ物も誘惑です。それに打ち勝つ秘訣を、私たちはヨセフから学びたい。

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-08-01 K・H兄)