信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 (ヘブライ12章2節)

34年前に出版された新共同訳聖書で注目された箇所が、上記聖句の捨てでした。これまでの訳では、喜びのゆえにでした。ご自分の犠牲によって救いが完成する喜びのゆえに、耐え難い十字架の死を耐え忍ばれたからです。1つの前置詞を①捨て、代わりに②ためにゆえに、のどちらに訳するかで正反対の意味になります。①喜びを捨て=地上の喜びを捨てて十字架の死を耐え忍ぶ姿。②喜びのゆえに=天上の喜びのゆえに、十字架の死を耐え忍ぶ姿。どちらの姿も主イエスですから、どちらに訳しても結果的には同じになります。恐らく両方の意味を持たせているとも読めます。そして、聖書協会共同訳では次のように訳されています。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

信仰は「信じて仰ぐ」と書きます。信仰の創始者であり完成者である主イエスを信じて仰ぐことです。主イエス様を仰ぎ、見つめながら(目を離さず)信仰の道を走るのです。私にはこんな経験があります。山形の冬は雪が積もります。目標地点を目指して進むのに、2つの方法を試してみました。1つは、足元ばかり見て、曲がらないように注意を払って前進しました。もう1つは、足元は一切見ないで、目標地点だけを見つめて進みました。結果は、目標地点だけを見つめて進んだ方が真っ直ぐに進めたのです。

信仰生活の進み方も、同じ原理が当てはまります。自分の足もと(日々の生活)ばかり見て修正するよりは、それには気を取られず、目標である主イエスだけを見つめて前進することが重要です。その時、忘れないでいたいのは決して一人ではないということです。共に祈り、共に聖書を読み、共に主を賛美する兄弟姉妹が必ず備えられています。そして何よりも、伴走者としての主イエスがいつも共に居てくださるのです。

ここまで「信仰によって生きる」をヘブライ11章から、ご一緒に読んで来られたことを感謝します。(終)