愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(Ⅱペトロ3章8節)
一日が24時間なのは、みんな平等です。大人も子どもも、男性も女性も同じです。しかし、時間って色々な顔を持っています。同じ1分でも信号待ちの1分は長く感じるのに、楽しい時の1分は短くあっと言う間です。また、子どもの頃は時間がゆっくりで沢山あったように思えるのに、大人になり年齢を重ねるにつれ、段々速くなります。80年生きても、あっという間のよう思えるものです。大切なことは、どれだけ充実した時間を持てたかです。あるいは、生きている喜びと幸せを感じているかです。
冒頭の聖句を見て下さい。「一日は千年のよう」とは、とても長く感じると言うことです。あるいは、ただ何となく過ごしている時間でもあります。それに対して、「千年は一日のよう」とは、非常に充実した時間をも意味します。千年分のことを一日で味わえるからです。しかし、聖書が告げているのは、それだけではありません。神の時間と、私たちの時間の違いを示しているのです。
神の時間は常に永遠ですから、昨日(過去)も、明日(未来)もなく、今(現在)だけなのです。言い換えれば「永遠の今」が神の時間なのです。神様の時間は、数字で計算できる時間ではないからです。それが冒頭の聖句の本来の意味です。とかく過ぎ去った出来事を「ああだったら」「こうだったら」と悔やむものです。しかし、過去は変えられません。また、未来はまだ来ていません。確かなのは今です。だから、今だけに集中して生きることが健全さにつながります。それが神の時間を生きることだからです。
今日一日を振り返り、「充実した一日だった」と、感謝の思いで眠りに就きたいものです。が、毎日そのようにはいかないですね。同じ長さの人生を生きたとしても、人との心温まる交流など、充実した時間を豊かに持っているかで大きな違いが出ます。同じ一日を過ごすのなら、生きていてよかった、最高!と感謝したいものです。不平不満をつい口にしやすいからです。
個人的なことですが、私にとってはイエス・キリストとの交流(聖書を読み、祈ること)が何よりの心温まる時間です。それこそがキリスト信徒に与えられた特権であり、恵みだからです。♪救いに与り 日々保たれ かくあることさえ 奇しきかな♫(礼拝讃美歌476番)と歌います。平凡な日々の中に充実した時間を見出せるなら、それは当り前ではなく、奇しいことだと気づきたいものです。そんなことを最近、思っています。(2021年5月2日)