信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、 耐え忍んでいたからです。 (ヘブライ11章27節)

モーセの生涯は、40年で区切ることが出来ます。40歳の時、虐げられている同胞を助けようとして、エジプト人を殺してしまいます。それにもかかわらず同胞からも受け入れられません。指導者になるには、まだ未熟だったからです。殺人のことが義父に当る王ファラオに知られ、モーセは刺客に追われます。そのため、「王の怒りを*恐れて」遠くミデアンに逃亡します。ところが、冒頭の聖句は、「王の怒りを恐れずエジプトを立ち去りました」とあります。これはどういうことでしょうか。(上記*は聖書にはありません)

聖書には一見すると、矛盾しているように思える箇所があります。どのように理解するべきでしょうか。ここでモーセがエジプトを立ち去ったのは、個人的なことではなく、民族を率いてのエジプト脱出のことだと、述べる注解書があります。しかし、前節との繋がりを考えると、そう読むのは不自然です。出エジプト2章11~15節のことだからです。そこには「恐れて」逃げたとは書かれていません。エジプトの王子としての恵まれた地位と生活環境を捨てて、自分のすべてを神に委ねる一歩を「信仰によって」決断した、とヘブライ書は述べているのです。同胞イスラエルをエジプトの圧制から救い出すには、今の自分では未熟だと痛感したモ-セが示されています。解放する同胞の理解を得るために、神は更に40年の時を待ちました。

モーセは、目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいました。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいた(Ⅱコリント5章7節)からです。コロナ禍が続く今、すべての出来事の背後におられる神(目に見えない御方)を、信仰の目で見るようにしたいものです。すべての出来事の背後におられる神を見て、この世の権力者ではなく、その上に立つ、王の王であり主の主である御方を見上げます。そして、いつまで今の苦難が続くのか分からない中で、モーセのように耐え忍んで、やがて訪れる解放の時を待ち望みたいものです。

「主よ、御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と、祈ります。