私たちの神と救い主イエス・キリストの義によって, 私たちと同じ尊い信仰を受けた(授かった)人たちへ。         (Ⅱペトロ1章1節)

歎異抄の本文は第18条で終わり、最後に「後序」が記されています。その最初に、信仰は賜物であることが述べられています。その経緯は、次のようです。親鸞が法然の門下で修行していた頃の話です。親鸞が「私の信心も、法然先生の信心も同じだ」と言いました。仲間の弟子たちは怒り「お前と先生の信心が同じだとはとんでもない」と言いました。論争してもらちが明かないので、法然に直接尋ねた。すると、法然は「私の信心も如来から賜ったもの、親鸞の信心も同じく賜ったもので、全く同じだ」との返答。勿論、親鸞は「知恵や学識に於いて、先生と私が同じというのではない。そうではなく、救われて往生する信心に於いては少しの違いもない」と言ったのです。信心=信仰ですから、それは神から賜ったものとの理解です。

冒頭の聖句は、使徒ペトロが書き送った手紙の一節です。信仰は尊いもの、イエス・キリストの義と犠牲によって、無代価で受けた=授かったもの。信仰は、私たちが努力して勝ち取ったものではなく、恵みとして授かり、いただいたものです。信仰の本質がそこにあります。この理解に至るには、時間がかかります。信仰はいのちを授かるのと同じで、徹底して恵みによります。これまで歎異抄を取り上げてきましたが、仏教でも救われるというのではなく、日本の歴史に於いて仏教が先に宣べ伝えられた意味を考えました。仏教は旧約です。夜の闇を照らす月です。義の太陽であるキリストが昇るまでの役割です。旧約が指し示すのはイエス・キリストです。そのことに気づいてから、それまで毛嫌いしていた仏教に向き合おうと考えるようになりました。父が熱心に帰依した親鸞の教えを学びたいと思うようになったのですが、それは父が癌で他界した57歳という年令に自分がなった頃からでした。そして、暁烏敏著『歎異抄講話』を図書館で見つけ、読みました。目から鱗が落ちる思いでした。彼は「福音」ではなく、「徳音」と表現しています。要するに救われるには全く値しない私を救い、死んでいた私にご自身の尊い命を授けてくださったのが十字架のキリストです。そのお方を歎異抄は指さしているのです。