歎異抄第18条には、布施に関した問題発言に対する親鸞の言葉が記されています。とんでもない発言とは「布施の額が多いか少ないかによって、浄土に往生してから大きな仏になるか、小さな仏になるかが分かれる」です。それに対して親鸞は、「とんでもないことであり、道理に合わないことである。だから、多く布施をすると大きな仏になれると言って、布施を奨励するのは良くない。する側も多くを布施したから、良くしてもらえるなどと思ってはならない。どんなに多額の布施をしようとも、真実の信心が欠けていたら、意味も効果もない。反対に、たとい紙1枚や銭半文も布施できなくても、本願の他力に心を打ち込んで、信心が深いなら、それこそ、弥陀の本願と目的そのもの」と教えました。布施は献金と言い換えられます。
こうした思い違いは、今も起きます。献金は少なくても良い、というのではありません。沢山献金したら沢山利益が得られるとは記されていません。とはいえ教団維持にはお金が必要だし、僧侶などを支えるためにも布施が必要なのは確かです。親鸞亡きあと、浄土真宗教団が設立されています。その運営には多額の経費がかかります。そこで、前述のようなとんでもない間違い発言を堂々と語る僧侶がいました。それを正すために、第18条が書かれたのです。
親鸞も唯円も信徒からの布施によって、自らの生計が維持されていました。旧約の祭司・レビ人は他の11部族から十分の一の献げ物(献金)を受けて生計を営んでいました。今日、神父・牧師・伝道者はレビ人に匹敵します。使徒パウロは、教会に負担をかけないため、テント造りをしました(使徒18:3)。しかしそれが本来のものではない、と述べています。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと指示されました(1コリント9章13,14節)。先立つものはお金、と世の中では言われます。それは確かです。しかし、先立つものは神への信頼と信仰ではないでしょうか。献金の本質は自発性にあります。どんなに多く献金しようとも、主が払われた犠牲には遠く及びません。また、何かを得るために献金するのではないはずです。罪と死から救ってくださった主の絶大な恵みに対する応答が献金です