そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。       (ルカ23章42、43節)

 歎異抄第17条。浄土の世界にも辺地があり、生温い信仰の人は、ここに往生する。死後すぐに地獄へ堕ちるのではなく、浄土でも劣った辺地に仮住まいが与えられる。しかし、そのような人は、結局は地獄に堕ちるのが定めだと言う学者らがいるが、とんでもないこと、と親鸞は述べています。ただ注目したいことは真の極楽浄土と、辺鄙な辺地である浄土の2つに分けていることです。その理由は、純粋に信じ、心から念仏を称える信徒だけでなく、生温い信仰から念仏を称える弱い者であっても救いたいからです。そうした者でも,一旦は仮の浄土に連れて行くのは、そこで教え直して真の浄土へ連れて行きたいからで、相応しくない悪人でも救いたいからなのです。「信じぬ者は助けぬ、と捨てるのではない。信じさせて、救ってやりたい。そのために辺地も設けてあるのだ。辺地から地獄へ堕とすのでは、何のための辺地かわからない」。仏像に千手観音があります。手が千本もあるのは、どんな人をも救おうとする願いが表現されています。

冒頭の聖句は、死刑に値する悪事を犯し、イエスと共に十字架に架けられている者が、自分は天国に入れて頂ける資格はないが、「思い出してもらいたい」と願ったら、イエスは「今日わたしと一緒に楽園に、あなたは居る」と約束された言葉です。天国に辺地はなく、信じるだけでそこに入れて頂けることが約束されています。カトリックでは、天国と地獄の間に煉獄を設けています。酷い罪を犯した人や中途半端な信徒はすぐに天国に入るのではなく、煉獄で様々な苦しみを経て、浄化されて天国へ行くとの教えです。これは歎異抄の辺地の教えに通じます.悪行の限りを尽くして生きた人が、それでも死ぬ前に主を信じる告白をしたとします。そうした人は、煉獄行きとなり、そこで犯した罪の代償を自らの苦しみによって払う。そして相応しくされてから天国に入る。これは理に適ったいるようにも思えます。しかし、イエスはそのようなことは言われず、「今日、私と一緒に天国に居る」と約束されたのです。