2024年12月8日
主日礼拝

ヨハネ9章1節:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。聖書には、イエス様が私たちを「見かけられた」「ごらんになった」という記述が何回か出てきます。つまり、私たちがイエス様を見る前に、イエス様が私たちをごらんになるのです。何か事が起こる時、私たちが先にイエス様を見つけるのではなく、いつもイエス様が先に私たちに目を留め、私たちを選んでくださる。このことがどれほど素晴らしく、嬉しく、感謝すべきことなのかを是非知っておかねばなりません。イエス様は「私の天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と言われました。しかし、私たちに神様の御心を行うことができるのでしょうか。Ⅰヨハネ514節:何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる。願うなら、即ち、天の御国に入れるよう祈るだけで良いというのです。そこに入れてくださいという祈りを、神様が喜んでくださる。 (百瀬)

②マタイ1章18~25節:この子は自分の民を罪から救うから、イエスと名付けなさい。イエスとは「主は救い」の意味を持つ名前です。救いの内容は、病気、貧乏、虐待や難民…そうしたすべての苦しみから救って下さいます。それで、イエスと名付けられて生まれたのです。根本的な救いは罪からの救いです。でも、どうすれば罪から救えるのでしょうか。罪の贖いとして、民に代わって罪の罰を受ける十字架の死によってです。更に、もう一つの使命は、インマヌエル=神が共におられる、です。罪から救い、その上、いつも共に居てくださるのです。そばに居て下さる以上に、私たちの心・魂の中に入って命となってくださいます。それなら決して離れることはありません。ですから、私の心の中にイエス様をお迎えするのがクリスマスの迎え方です。家畜小屋に生れたとは、私たちの心の中にも入って、生まれて下さることです。そして、光となり、命となり、愛となって、私の中で輝いてくださるのです。          (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-12-08 百瀬兄、浜田兄(22:00))