回心(心を回す=方向転換)とは,それまで神に背を向けて来た人が、180度方向転換をし、神を仰ぎ見る生き方に変えられることを言います。そこには悔い改めが伴いますが、懺悔・反省と言うより、水と霊によって新たに生まれることです(ヨハネ3章3,5節)。劇的な回心もあれば、自分でも気づかないうちに起きている回心(スポンジに水が浸み込む如く)もあります。そして、神に心を開く開心→懺悔が中心の改心→生き方・考え方が大きく変えられる回心へと順を経ます。そして、その後も、日ごとの悔い改めが続くのは、過ちを犯さない人は誰一人いないからです。
歎異抄では同じことを「廻心(えしん)」と呼び、第16条にそれが記されています。「廻心というのは、自力の心を翻し、捨つるをいう」(親鸞)。間違った方向にある悪い心を悔い改めて、正しい善い心に向かわせることが、次のように記されています。生活の中で、思わず腹を立てたり、悪いと知りつつもしてしまったり、仲間と口論したりした時には、その都度、必ず廻心・懺悔しなければならないと言われているが、そこには自力で悪心を断ち、善をを行おうとする自力の心が見えます。反省し、悔い改めることは大切。しかし、同じ事を何度も悔い改めてしまうのも、私たちの現実。そこで親鸞が教えたのは、自然(しぜんではなく、じねん)ということ。自ずから然らしむることで、自我の計らいを捨てて、ひたすら弥陀の力をいただくこと。悪を断ち善を修めようと努力する自力を放棄し、一切の事について、小賢しい気持ちを持たない。ただ、我を忘れて、弥陀の御恩を深く思い返すなら、自ずから感謝が出る。それが自然(じねん)ということです。
心を尽くして主に信頼し、自分の分別(悟り)には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなやの道筋をまっすぐにしてくださる。 (箴言3章5,6節)
自分の力だけで出来れば、誇りが出ます。反対に、出来なければ失望落胆します。それが、回心を経て、上からの新しい力・聖霊によって、させられて行くなら誇りは出てきません。肩から力を抜き、主に委ね切って、全力で前進して行くのです。
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る(イザヤ40章31節)。新たな力を神は与えられます。
疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる(同40章29節)のは、こちらが無になるからです。