このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです。 (ローマ7章25節)
歎異抄第15条は、この世と来世の違いを「信じることと悟ること」と分けて、この世で完全な悟りに入ることを求めるのは、とんでもないことと書いています。幾つもの欲と煩悩を抱える生身で、仏と同じ悟り(煩悩の完全な消滅と克服する)を得ることはできない。それを求めて厳しい修行に打ち込んでも、地上では完成を得ない。にもかかわらず、修行を積み、六根清浄(目・耳・鼻・舌・身・意の六根が清浄になる)を口にし、あたかも悟りを開いたかのように語る高僧もいるが、思い違いもはなはだしい。私たちはこの世では悟れなくても、完全な悟りへと入れられる浄土を来世において楽しめる。それを、この世では信じるのです。では、何を信じるのでしょうか。信じる者を救い、悟りはあの世で必ず与えられるということです。
聖書はどう言っているのでしょうか。冒頭の聖句でパウロは自身の現実を述べています。したいと望む善は行わず、望まない悪をしてしまう。二律背反の矛盾を抱えたまま、信じているとの告白です。肉(堕落した本性)を身にまとっている限り、キリスト者としての葛藤と弱さから脱することはできない、からです。それはそのまま、私たちの現実です。罪から解放されたのに、なお罪を犯します。しかし、キリストを信じて義とされ(義認)救われます。私たちは、そこから聖さを求めます(聖化と言います)。義認はただ一度で十分ですが、聖化は生涯継続します。それでも完全には至りません。不完全なままです。悟りには至らないのです。しかし、主に結ばれた死を通して栄化に至ります。栄化とは栄光の体に変えられることです。キリストと同じ姿に変えられるのです。「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(Ⅰコリント15章51,52節)。
歎異抄は、仏教の中でも革新的な書です。人間の努力・修行によって救われるのではないからです。神の憐れみと、キリストの恵みによって救われるからです。そのことからも、歎異抄はキリストの福音を内包している、と言えるのです。