神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(Ⅰテモテ2章4節)
私たちが救われるために必要なのは「信仰」です。真理を知り、理解してから救われると言うより、救われて真理を知る。そのために道・真理・命であるイエス・キリストが人として遣わされたのです。すべての人を救いたい、と神は願っておられるからです。その事と仏教の教えとの関係について、先ず記します。
仏教は夜を照らす月の光で、キリスト教は太陽の光だと内村鑑三は言いました。仏教は旧約だと言うことです。キリストが新約そのものだからです。旧約はキリストを証しする書です。わが国において仏教は鎌倉時代を中心に栄えました。親鸞らを通して教えは全国津々浦々まで及びました。それから数百年後にザビエルが来日し、布教しますが、彼は、「日本には私より先に福音を宣べ伝えた者がいた」と、述べています。仏教の教えがそれですが、そこに福音に通じる言葉が語られていたのです。その中心に親鸞の教えがあったことは確かです。神はわが国にまず仏教を通して救いを、月の光として示されたのではないでしょうか。そのような理解を踏まえて、歎異抄を読んでゆきます。
歎異抄の最初に記されているのは、本願他力の信仰です。救われるには、この信仰が求められたのです。
「弥陀の本願には、老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」と本文にあります。弥陀の本願=心からの願いは人を救うこと。どのような人が救われるのか。老少善悪の違いにはよらず、ただ信心だけが問われる。月が清水と濁水の区別なく池の面に宿るように、また露が美しい花と醜い花の区別なく宿るように、仏の慈悲はどのような人の胸にでも宿ってくださる。ただ信心が肝要ですが、それは、ただ弥陀の御力を自分の力と頼むだけ。無条件の救いを、そのまま受け取って弥陀にお任せするのが信心。この信心に目が開けて初めて、弥陀の慈悲が味わえるようになります。自分が罪悪深重であること、心の中には煩悩の念が燃え盛っていることを自覚している人に「我に頼れ」と招きつつ呼んでおられるのが弥陀の本願。
以上、仏教用語(弥陀、本願、信心)に違和感があるかと思いますが、信仰の本筋が先ず述べられていることに気づきたいのです。