歎異抄第11条には、単純に、素直に信じている一文不通の人々を惑わすことへの戒めが記されています。昔は一文不通と呼ばれる、字の読めない人がいました。つい、そうした人々を馬鹿にしたり、自分の知識をひけらかす者がいたからです。そこで、親鸞は自分の事を愚禿親鸞(愚か者親鸞)と自称しました。自分の存在そのものが、愚かとしか言いようのないことを知っていたからです。だから、文字の読めない一文不通や、学問の無い人々を馬鹿にしたりしないばかりか、それと同列に自分を置いたのです。そして、何とかして民衆を救おうとしました。知識は数として量ることができます。学問や知識の世界には良い意味でも悪い意味でも、競争と比較が付き物です。しかし、信仰は違います。信仰は恵みとして、いただくものだからです。
信仰の門には、知愚の別はない。その代わりに信疑の別がある。知者も愚者も信じて救われる。理屈的に研究している態度では、いつまでたっても救いには至らない。私のようなモノの道理の分からぬ、徳行の収まらない者でも救われるだろうか、と心配している人があるなら、神には悪人と善人、浄き心の者と穢れた心の者との差別はない。ただ。私のような浅ましい者でも、憐れみによって救われたことを伝えて、信仰に導くことこそ、学問をした甲斐があるもの。(暁烏敏)
使徒パウロは、偉大な教師ガマリエルに師事し、律法について厳しい教育を受けました(使徒22章3節)。その彼が、誇りとしていた学歴や学識を捨てたのは、復活のキリストと出会い、180度の転換をしたからです。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」 (Ⅰコリント2章1-2節)
人々の間で賢く見える学識の言葉を使わず、十字架のキリストだけを語ると決心したパウロ。その十字架はユダヤ人にはつまずきとなり、異邦人には愚かと見えようとも、十字架の言葉にこそ神の力があるからです。知っていれば、学のある所をつい見せたくなるものです。知識を語りたくなるものです。ところが、博学多才なパウロをして、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と決心させた程に、十字架の言葉の持つ神の力を知ったのです。十字架による救いと、十字架に示されたキリストの愛の絶大さが迫って来ます。