あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣ないなさい。(ヘブライ13章7節)

冒頭の聖句は、初代教会に於ける指導者たちのことです。具体的な名前は記されていませんが、同信会に於いても信仰の先輩(指導者)が思い出されます。必ずそこには、聖霊として働かれる主イエスがいます。人は人を通して学び、その人の人格の中に生きて働かれている主イエスに触れます。語る言葉以上に、その人の生き方が問われます。神の言葉を語った指導者の生涯の終わりをしっかり見て、とあります。そこに愛が示されているかどうかが、問われているのです。

親鸞亡き後、弟子の唯円によって書かれたのが「歎異抄」ですが、唯円にとって親鸞は忘れ得ぬ信仰の指導者でした。信仰の喜びが少ないことを尋ねると、親鸞は「わしも同じじゃ、唯円よ」と共感してくれたのです。思い出すたび、懐かしさと慕わしさの情が溢れました。それが前回読んだ第9条でした。死後においても、そのように慕われる人こそ真の指導者です。そのような人のもとに、多くの人は集められたのです。

イエス・キリストのもとに人が集まったのも、それと似ています。イエスは人であるだけではなく、神としての気高く深い慈愛に満ちた人格(神格)をお持ちでした。その主が語られた言葉、行われた御業と共にそのご最期を思う時、懐かしさというよりも、かたじけなさが噴き上げてきます。何の罪もないお方なのに激しく鞭打たれ、引き裂かれ、神と人から見捨てられた十字架のイエスさま。それらはすべて、私を救うためであったとは。何も分かっていない、救われるに全く値しない者のためにご自分の命を捨て、身代わりの死を十字架上で遂げられたのです。命を捨てるほどに愛されていると知らされたなら、どうでしょう。感謝と喜びで胸が一杯になるはず。忘れ得ぬお方であるはずなのに、何としばしば、主を忘れることでしょう。驚くべき忘恩さです。それが罪です。イザヤ書は冒頭から、「主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い葉桶を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」(2,3節)と、忘恩の罪を示し、これが私たちの姿であると指摘しています。