2024年10月27日
主日礼拝

モーセが神様に約束の地に共に行ってくださいと願った時の幕屋は簡素なもので、モーセは顔と顔を合わせて神様と話した(出エジプト33章7~11節)。しかし、出エジプト記の最後で完成した臨在の幕屋には、至聖所の前に隔てとして垂れ幕がかかっていた。イエス様が十字架上で亡くなられた時に、この垂れ幕は真っ二つに裂けた。これは隔てが取り除かれたということ。これにより私たちはイエスの血によって聖所に入れると確信し、イエス様が備えてくださった新しい生きた道を通って、信頼しきって、真心から神に近づくことができる(ヘブライ10章19~22節)。そして弟子たちと同じように、ありありとイエス様を見、聞き、親しく交わりことができる(ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~4節)。更に、「アッバ父よ」と祈ることができる。なんと幸いなことか。この幸いは、すべてイエス様の十字架の御業によるものであることを覚えたい。    (増岡)

②マルコ7113節:こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。これは食前に手を洗わないのは律法違反だと咎める律法学者たちを諫(いさ)めて言われた主の言葉だ。私たちが守るべき律法は主なる神を愛すること、隣人を自分のように愛すること。これに集約される。なのにとかく、私たちは律法に人間的な考えを付加して、ハードルを上げ、それを守っているという自負心を冠の如く頭に乗せ、誇らしく思う。なんと愚かなことか。それは根拠もなく昔から受け継がれてきた言い伝えに過ぎないと主は言われる。そしてそんなちゃちな冠は捨て去って、主の御言葉にのみ忠実であれと言っておられる。礼拝讃美歌23番2節の♪冠を捨てて伏し拝み…♪という歌詞を想う。(人見)

  礼拝讃美歌23番(聖なる 聖なる 聖なるかな 神の御前に  聖徒らも 冠を捨てて 伏し拝み 御使いたちも 御名を誉む)

 先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-10-27 増岡兄、人見兄(23:00))