心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。(箴言3章5-6節)
歎異抄を1条ずつ読んでいますが、今回は第十条です。念仏には、無義をもって義とす。不可称・不可説不可思議の故にと、仰せられき。(現代訳)念仏を称えるには、自力の計らいの無いことが義となる。それは言葉で言い表せず、説き明かすこともできず、人間の考えの及ばないもの、と親鸞聖人は仰せられた。
ここで言われている「義」とは「計らい」の意味で私たちが企てる計らいを超えたものだ、という。人間的な計らいを自力というのなら、そうした自力の計らいを捨てて、広大無辺な仏の力に依り頼むのが念仏だと親鸞は教えたのです。(聖書の義とは違っています)
念仏=祈りと理解すると身近に感じられます。私は仏教徒の家に生まれ育ち、仏壇の前で正信偈(親鸞が書いた経)を聞きましたが、その意味は全く分かりませんでした。その後、イエス・キリストを知り、信じてからは仏教を嫌悪しました。異教だと思ったからです。そんな私が歎異抄を知り、その意味を理解するにつけ、今まで抱いていた仏教への否定的な思いが大きく変わりました。仏教は異教ではなく旧約であって、福音が隠されていると理解できたからです。
ここで、冒頭の聖句を見て下さい。自分の分別には頼らず、常に主を覚えて生きることが勧められています。人間的な計らいや分別は思い煩いを生み、あくせくと画策してしまい、自分の分別に頼ります。そうではなく心を尽くして主に信頼し、常に主を覚えてあなたの道を歩くことです。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。自分を知恵ある者と見ないで、主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、骨は潤されて健康になる(箴言3章5~8節)とあります。心配の要らない世界があるもので何も思い煩わず、お任せして生きる自然法爾(じねんほうに)の世界に生きる、と言い換えられます。自然=人の計らいや意図を離れて、物事が自ずから成ること。そうした自然の中で、神は働かれます。
信仰の世界は、人間の分別や理性では測り得ない、不可称・不可説・不可思議なものです。それを歎異抄第十条は記しています。親鸞が晩年に到達した世界ですが、キリストに故に私たちは今、そこに入れます。